東京高等裁判所 平成9年(行ケ)39号 判決 1997年7月16日
主文
特許庁が平成六年補正審判第五〇〇四七号事件について、平成八年一二月二五日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
理由
【事実及び理由】
第一 当事者の求めた判決
一 原告
主文と同旨
二 被告
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者間に争いのない事実
一 特許庁における手続の経緯
原告は、平成四年九月三〇日、「一冨士」の漢字を縦書きしてなる別紙(1)表示の商標につき、指定役務を第四二類「社員食堂、寮・保養所・研修センター、学校内食堂、病院給食の経営受託」として商標登録出願をし、その後同年一〇月二九日、登録を受けようとする商標を「一冨士」の漢字を左横書きしてなる別紙(2)表示の商標とする補正(以下「本件補正」という。)をしたが、平成六年一月一七日に本件補正を却下する旨の決定を受けたので、同年三月二五日、これに対する不服の審判の請求をした。
特許庁は、同請求を平成六年補正審判第五〇〇四七号事件として審理したうえ、平成八年一二月二五日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は、平成九年二月一七日、原告に送達された。
二 審決の理由の要点
審決は、別添審決書写し記載のとおり、願書に添付した商標登録を受けようとする商標を表示した書面の補正が、自他商品又は役務の識別力に影響を与える表示の本質的部分を変更するものであるときは、その補正内容の如何を問わず、商標の要旨の変更となるものをするのが相当であるとし、本件補正につき、「一冨士」の漢字は本願商標の自他役務の識別力に影響を与える表示の本質的部分であるところ、当該文字を縦書きから左横書きへ変更する補正は、商標の外観を変更し、商標の観念及び称呼の変更を生ずるおそれもある商標の範囲の変更であると認められるから、本願出願時の商標の要旨を変更するものといわなければならず、これを却下した補正却下の決定は相当である、とした。
第三 原告主張の審決取消事由の要点
本件補正は、商標の外観、観念、称呼に変更を及ぼすものではないから、これを要旨の変更とした審決の判断には事実誤認の違法があり、審決は取り消さなければならない。
一 本件補正は、同一の文字を縦書きから左横書きに変更するだけのものであり、書体等について全く変更はなく、商標の外観、観念、称呼に変更を及ぼすものではない。
我が国では、古来より文字は縦書きで表示されてきたところ、最近に至って、国際化により欧米諸国の横書き表示が導入されたが、このような縦書き文化から横書き文化への変更は完了したわけではなく、現在進行中であって、各官庁の作成する公文書にも、既に横書きに変更されたもの(例えば、特許庁の公報・登録原簿)、現在改訂途中のもの(例えば、法務局の不動産登録簿)、未だ縦書きのままのもの(例えば、裁判所の一部を除く裁判書)が存在する。
商標は社会において使用されることを必要とするものであるが、官庁において縦書きから横書きへの変更が進行している現在、一般社会においてもその影響を受けているものの、その意識が完全に変っているわけではなく、商標の使用も縦書きのものや横書きのものが混在している。そのような商標の使用状態からして、商標を縦書きから横書きに変更することについて、商標の要旨を変更したという一般的意識は存在しないものといわなければならない。
二 これを裏付けるものとして、特許庁の商標審査基準は、存続期間の更新登録出願の審査における商標の同一性の判断の基準につき、「使用に係る商標が登録商標と社会通念上同一のものと認識し得るか否かを観察するものとし、登録商標に係る指定商品の属する産業分野における商取引の実情をも充分に考慮するものとする。」としたうえで、例示として、「同一字形における縦書きによる表示態様とこれに対応すると認め得る左横書き又は右横書き(ローマ字にあっては、右横書きを除く)による表示態様の相互間の使用」を登録商標の使用を認められる例として掲げている。すなわち、商標審査基準は、縦書きと横書きの商標は同一の商標と認めているのである。
上記基準は、存続期間の更新登録出願の審査の際の商標の同一性の判断に係るものではあるが、我が国における縦書き文化と横書き文化とが混在している現在の表示態様を充分に認識したものであり、商標出願の要旨の変更の有無判断にも適用されるべきものである。
第四 被告の反論の要点
審決の認定判断は正当であって、原告主張の審決取消事由は理由がない。
一 本件補正において、当初の縦書きにされた「一冨士」との漢字を左横書きに補正することは、商標の外観を変更するものであり、観念及び称呼に変更を生ずるおそれもあるものであって、例えば、本願の商標登録出願後、本件補正前に、本願商標の「一冨士」の漢字と書体を同じくする左横書きの「二冨士」又は「三冨士」の漢字を書してなる商標が他人によって登録出願されていたとした場合、本願商標の「一冨士」の漢字を縦書きから左横書きに補正すれば、両者につき外観上類似となる可能性を生じさせ、競願者等の第三者に不測の不利益を及ぼす結果となり、ひいては、先願主義、登録主義に反するものとなるから、商標の要旨を変更するものというべきである。
商標法は、商標権の発生につき、商標の使用の事実の有無にかかわらず、設定の登録という行政処分によって商標権を発生させるとする登録主義を、商標権の帰属につき、二以上の同一又は類似の商標の出願が競合した場合、使用の先後を問題とせず、最先の出願人に登録を認めるとする先願主義を採用している。先願・登録主義の下では、出願人の商標登録を受ける優先順位は出願日によって決定されるため、先願の出願人に、出願時の商標の要旨を変更する補正を認めるときは、その補正の効果が出願日に遡及することから、後願の出願人がその出願時に得た地位が不当に侵されるおそれがある。そこで、同法一六条の二第一項(平成八年法律第六八号による改正前のもの、以下、摘示する条文について同じ。)は、商標の要旨を変更する補正を認めないこととしたものである。
したがって、商標の要旨が変更されたか否かの問題は、かかる観点から検討されるべきものであり、商標の使用状態から要旨の変更をしたという一般的意識が存在するか否かによって決しようとする原告の主張は失当である。
二 商標権の存続期間の更新登録出願の審査における登録商標の使用の認定について、商標審査基準は、登録商標の使用と認められる商標の事例として、「同一字形における縦書きによる表示態様とこれに対応すると認め得る左横書き又は右横書き(ローマ字にあっては、右横書きを除く)による表示態様の相互間の使用」を掲げている。これは、商標権者は本来、登録商標をそのまま使用すべきものであるが、やむをえず変更をして使用される場合もあり、このような場合に、単なる物理的同一にこだわらず、取引社会の通念に照らして判断される必要があるという観点から設けられた登録商標の使用における基準である。
これに対し、願書に添附した書面に表示された商標については、これにのみ基づいて登録商標の範囲が定められる(商標法二七条一項)ものであるから、願書に添附した書面に表示された商標の付記的部分とはいえない部分の補正を認めることは、前述のように、競願者等の第三者に不測の不利益を及ぼし、ひいて先願・登録主義に反するものとなるばかりでなく、このような補正を再三にわたり許容することは、迅速な審査の阻害となり、権利化を遅延させることにもなるのである。
このように、願書に添附した書面に表示された商標につき補正を認めるか否かは、先願・登録主義に反するものとなるか否かを基準にすべきものであって、登録商標の使用における基準によって律すべきものではない。
第五 証拠《略》
第六 当裁判所の判断
一 商標登録出願人が願書に添付した書面に表示した商標について行った補正が、商標の要旨を変更する補正に当たるかどうかは、当該補正が、出願された商標につき商標としての同一性を実質的に損ない、競願者等の第三者に不測の不利益を及ぼすおそれがあるものと認められるかどうかによって決せられるべきものであるが、その判断は、当該補正前の商標と補正後の商標との外観、称呼、観念等を総合的に比較検討して、全体的な考察の下になされることを要するものというべきである。
二 本件補正前の本願商標が「一冨士」の漢字を縦書きしてなる別紙(1)表示の構成であること、本件補正後の本願商標が「一冨士」の漢字を左横書きしてなる別紙(2)表示の構成であることは当事者間に争いがない。
これによると、本件補正の前後において、本願商標の外観が異なることは明らかであるが、その相違点は、専ら本件補正前においては「一冨士」との三文字の漢字が縦書きであり、本件補正後においてはこれが左横書きであるとの点に存し、それ以外の点に関しては、本願商標を構成する漢字及びその書体は全く同一であるほか、各漢字の大きさ、字間等にもほとんど差異がないものと認められる。
そして、本件補正前の本願商標からは、各構成文字の通常の上から下への読み方に従って「いちふじ」との称呼が生じ、各構成文字から、日本一の名峰富士山との、あるいは「一富士、二鷹、三茄子」という俗諺からの連想によって縁起の最も良いものとの観念が生ずるものと認められるところ、本件補正後の本願商標からも、それが三文字の漢字からなり、現下における日本語の表記方法としては、縦書きも左横書きもともに極めて自然に受け容れられていることからすれば、「いちふじ」との称呼が自然に生じ、観念としても、本件補正前の本願商標と同じ観念が生ずるものと認められ、これをことさらに右から左に「士冨一」と表示されているとしてこれに従った称呼及び観念が生ずるものと理解する契機はないものと認められる。すなわち、称呼及び観念の点においては、本件補正前の本願商標と補正後の本願商標との間に全く相違はない。
このように、本願商標が本件補正の前後を通じ、特定の称呼及び観念を有する三文字の漢字のみによって構成され、図形部分等その他の要素が存在せず、本件補正前と補正後の本願商標の相違は、その外観のうちの三文字の漢字を縦書きとしたか左横書きとしたかという点に限られるものであって、この相違により、他の称呼及び観念が生ずるものとは認められないことを考慮すれば、外観、称呼及び観念を総合して全体的に考察した場合、本件補正前の本願商標を補正後のものに変更したところで、社会観念上、両者の同一性を実質的に損ない、第三者に不測の不利益を及ぼすおそれがあるものと認めることはできない。
被告は、願書に添付した書面に表示した商標の付記的部分とはいえない部分の補正は商標の要旨を変更するものというべきであり、本件補正は商標の付記的部分とはいえない部分の補正に当たるものであると主張する。そして、本件補正が、願書に添付した書面に表示された商標を構成する三文字の漢字全体を縦書きから左横書きとするという点では、商標の付記的部分とはいえない部分の補正に当たることは、被告主張のとおりであるが、商標の付記的部分とはいえない部分の補正に当たるということから、その補正内容の如何を問わず、直ちに商標の要旨を変更するものであるとすることはできず、前示のとおり、補正前の商標と補正後の商標の外観、称呼、観念等を総合的に比較検討して、全体的な考察の下に要旨の変更に当たるかどうかを決すべきものであるから、上記主張は理由がない。
また、被告は、仮に、原告の商標登録出願後、本件補正前に、本願商標の「一冨士」の漢字と書体を同じくする左横書きの「二冨士」又は「三冨士」の漢字を書してなる商標が他人によって登録出願されていたとした場合、本願商標の「一冨士」の漢字を縦書きから左横書きに補正すれば、両者につき外観上類似となる可能性を生じさせ、競願者等の第三者に不測の不利益を及ぼす結果となり、ひいては、先願主義、登録主義に反するものとなるから、商標の要旨を変更するものというべきであると主張するが、先に本願商標の外観、称呼及び観念について検討したところによれば、「一冨士」の漢字よりなる商標と、これと書体を同じくする左横書きの「二冨士」又は「三冨士」の漢字よりなる商標との類否判断が、「一冨士」の漢字が縦書きであるか左横書きであるかによって結論を異にすることになるものとは考えられないから、上記主張も失当である。
さらに、被告は、このような補正を再三にわたり許容することは、迅速な審査の阻害となり、権利化を遅延させることにもなると主張するが、適法な補正は法の許容するところであるから、被告の主張するところは、本件補正を許すべきでないとする理由にはならない。
したがって、審決が、本件補正が商標の要旨を変更するものであると判断し、商標法一六条の二第一項に基づきこれを却下した決定を相当としたのは誤りといわなければならない。
三 よって、原告の請求は理由があるから認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 牧野利秋 裁判官 石原直樹 裁判官 清水 節)